人間が根元的に持つ欲望を仏教で「煩悩」という。渓流釣り師の場合「尺ヤマメが釣りたい!」などがその代表例か。これら煩悩に執着すると、それが手に入らない、思い通りにならない、ということになり人間の不幸が始まるのだそうだ。すべてが「無常」であり、執着することの無意味を知る。この状態を「悟りを開いた」という。
最近一つの煩悩への執着が芽生えてしまった。オオモノへの憧れ。ドライフライ一辺倒だった自分の場合、どうしても確率的にオオモノがかかりにくい。もう10年も渓流釣りをやっているのに尺超え(除くニジマス)のトラウトは指で数えられる範囲。数はいいからもっとオオモノが釣りたい。こんな煩悩が頭から離れない。これがきっかけでウェットフライへの完全転向を心に決めた。
実は過去にはウエットでの釣りに何度かトライしてみたことがある。特別にウエットでやりたかったわけではない。ニンフでの釣りはなんとなくフライらしくなく興味がなかった。でもオオモノは水面深く、川底に潜んでいることはわかっている。だから水面下で釣るにはウエットしかない。でも所詮このような「消去法的選択」だったウエット。中途半端な意気込み。ちょっと聞きかじった程度の知識。こんなことで釣れるほどトラウトは無防備ではなかった。「いまフライはどのへんを泳いでいるんだろう」「本当にアタリがわかるだろうか」「2時間も釣れないのはトラウトがいないのか、それとも・・・」。などとフライ先行ならぬフアン先行となってしまい長続きしなかった。
というわけで一念発起。ウエットをマスター、いや、せめて釣りになるようにがんばろうと決心したのが数年前。でも半端な覚悟では失敗するに決まっている。経験的にもわかっていた。そこでその日からは川がどんな状況であろうとウエット一本に絞ることにした。雨のようなライズリングに遭遇しようと、メイフライのスーパーハッチがあろうがひたすら水中にフライを泳がす。釣果への「執着」、ドライへの「誘惑」を断ち切ってウエットの悟りを開くこと。しばらくはこれだけを目標に渓流に通うことにした。
結論から言うと意外と早くウエットで釣れてしまった。それは尺にちょっと届かない「泣き尺」のイワナ。場所は千曲川本流。天気がよく、川岸に残雪がある季節にもかかわらず寒気は肌を刺すほどではない。でもそのときの釣り方がイマイチ納得のいくものではなかった。ウエットフライを使った釣りではあったがウエットフライ・フィッシングの醍醐味からはほど遠い。
その日はラインをダウンクロスにキャストしてフライをスイングさせる典型的な本流の攻め方を試みていた。水量も豊富だし濁りもない。絶好のコンディション。しかしアタリがわからないのか、トラウトがいないのか。またいつものウエットに対する不安ばかりが頭をよぎる。そんなとき、完全にスイングしきったラインをレトリーブせず、ラインにテンションをかけたままフライを泳がせてみた。前後、左右。フライはちょうど瀬と淵の境目あたりを泳いでいた。しばらくして「ガツーン」。明確なアタリがロッドを伝わってきた。すぐにあわせてラインを引っ張ると、けっこうな重みが感じられる。早春の太陽を全身に浴びてキラキラと光るくだんのイワナがランディングネットに収まった。
いままで千曲川での釣りはドライオンリーだったためか大きくてもせいぜい25 6cmであった。それがいきなり30cm近いのが釣れたので幸先がよいと素直に思った。しかしやはり釣り方が気に入らない。ちょっとズルをした感じ。気を取り直してまた「ウエットらしい」釣り方に戻る。トラウトがいるのがわかったので幾分かの不安が取り除かれた。
キャスティングをしていて気がついたことがある。ものの本を読んでいればとっくにわかっていたことかもしれないが、簡単なことである。フライを確実に先行させて流すにはラインをオーバーターンさせるといい。ふつうにラインをターンオーバーさせるとまずラインが着水してフライがそれに続く。つまりラインが先に下流に流れ始め、ワンテンポおいてからフライが流れる。これではフライがラインに引っ張られ、具合が悪い。リーチキャストなどでラインを少しでも上流側にもっていき、フライを先に流せばいいのだが、オーバーターンさせることでより確実にフライ先行となる。慣れてくると着水した瞬間のフライをアンカーにして空中にあるラインを上流側にメンディングできるようになる。
こんな発見をしながらキャスティングをするのだが、結局この日はそれ以降トラウト達からは音信不通。いや、この日だけでなくそのシーズンの前半は、お釈迦様に怒られるかもしれないが、「坊主」の連発。どうしてだか釣れない。これはきっと試されているのだ。だれかに囁かれているような気がする。「信じる者は救われる」と。
〈続く〉
黒須 幹